鳥海山・飛島ジオパークを小林さんと歩く

NHKの番組「ブラタモリ」にて、庄内編で案内役を務めた酒田市職員の小林さんがガイドをしてくれた酒田体感プログラム。鳥海山・飛島ジオパークって何?地理の公園? 庄内も山形も初めてで、予備知識もほとんどない私が、プログラム参加者の皆さんと暑い酒田の街を熱く体感しました。

目次

60万年前から酒田を見守っていた鳥海山

60万年前から数えきれないほどの噴火を繰り返し、溶岩と火山灰が積もり誕生した鳥海山。現在の標高は2236メートルですが、今から2500年前はもっと高く、その後、山が崩れて(山体崩壊)現在の標高になったそうです。

庄内地方に春の訪れを告げる、鳥海山の中腹に現れる美しい雪渓。富士山の残雪は山頂付近だけなのに、鳥海山には毎年「種まき爺さん」の姿をした雪渓が表れるのは何故か?

それは溶岩の質の違いに秘密があるそうで、例えるなら富士山はソース、鳥海山はマヨネーズと言うことができ、鳥海山の溶岩はどろどろしているため均一に広がらず山肌に凸凹ができる。同じ斜面でも雪解け時期に違いが生じるのはそのためなんだそうです。

冷えた溶岩が固まって岩となり何層にも重なってできた鳥海山はまさに自然のダム。鳥海山から流れ出る川が人々の暮らしを豊かにしてきたんですね。

扇状地にあった大和朝廷の城

昭和6年、田んぼの圃場作業中に発見された城輪柵(きのわのさく)。

まだ東北地方が蝦夷の国だったころ、大和朝廷が征夷大将軍・坂上田村麻呂を東北地方制圧のために送った最前線基地で平安時代の国府だったと考えられています。

一辺700メートル余り、52ヘクタールの広さの城跡は、現在は広大な庄内平野の田んぼの中に、正門の南門、東門と築地壁が復元されています。

何より驚いたのは、復元方法!門を復元する際、実際の高さがわからず、門下にできた雨だれの跡から計算して決めたとのこと。復元にそんな地道で緻密な作業が隠されていたんですね!?

南門の前に作られた城跡全体の模型を見ながら解説をして頂きます。「平安時代の政治の中心地からみると、ここへの赴任は左遷だと想像するかもしれませんが、実は栄転だった。蝦夷の人たちは貢物として毛皮や馬を献上してくれた。今でいうなら馬はスポーツカーみたいなものですからね、昆布や塩など中央の人が欲しいものが手に入る。魅力いっぱいの地だったんです。」と小林さん。北門は南側の正門から入れなかった蝦夷の国の人のためのものだったそう。

また当時の稲作は、湿地にもみ殻を直接撒く手法とのことですが、鳥海山から流れる川の扇状地はそのころからも恵みを与えていて、さらに城輪の柵のあった時代から最上川を利用してものを運ぶ交易を行なっていたそうです。

弘法大師が発見した聖なる滝

産地直売所「産直ららら」の駐車場でバスを降りて目指すのは玉簾の滝。一帯は神社の敷地で、鳥居を通り過ぎる際の「スノートレッキングではこの鳥居の上をまたいで行きます。」との言葉に雪の深さを想います。

歳の数だけたたくと願いが叶うというポンポン石、樹齢1000年の御神木を仰ぎ見て滝にたどり着きました。落差63メートル、ほぼ垂直に一気に流れ落ちる滝の勢いに圧倒されます。参加者のみなさんからも感嘆の声があがります。冬には氷瀑になるという滝つぼの側まで近づき水しぶきを浴びると気持ちの良いこと!暑さで溶けそうだった脳も身体も一気に洗われるようです。

滝の岩肌は黒い柱を何本も並べたように見える「柱状節理」。これは溶岩が海底で冷えて固まる際、体積が縮んでできた構造だそうです。玉簾の滝は鳥海山の爆発ではなく飛島と同じころに海底から隆起したもので、飛島の二俣島でも柱状節理は見られるといいます。

もう一つ興味深かったのは「新潟から秋田にかけて750年から850年頃あちらこちらに建てられた神社は大和朝廷の勢力が拡大した時期に重なる。武力で制圧したあと、神の力を借りて支配したことを物語っている。」というお話。玉簾の滝が1500万年前に生まれたことから考えると、大和朝廷の時代、否、人間の歴史はついこの間みたいなものなのかもしれません。

数河の池

荒瀬川と日向川。どちらも八幡地域を流れる川ですが、荒瀬川は雨水の川で日向川は雪解け水なので水温が違います。二つの川の合流する酒田市内には右足と左足で水温が違う地点があるのだとか。

雪解け水は冷たすぎてそのままでは農業用水として使えないそうで、古来より陽にあたる表面積を広げ、水温を上げる工夫が凝らされていました。秋田県側では幅の広い用水路を何段かに分け、山形県側ではため池をつくって温度をあげているそうです。現在その数河の池は遊歩道や東屋が整備されキャンプもできる憩いの場になっています。

川の流れのように

高さ40メートルほどの崖に茶色い泥の層と灰色の砂の地層が見えます。川の流れが緩やかで、細かい泥だけがここまで流れてきた時代が茶色、山の隆起が進み川の流れが少し激しくなって砂も到達するようになった時代が灰色を示しています。地層の違いは時代の違い。「山の隆起は1年で1センチ。40メートルの高さになるには何年かかったでしょう? という問題をフィールドワークの時に小学生に出します。」と小林さん。答えは…4万年⁈

日向川荒瀬川沿いの山には縄文人の遺跡が数多く発見されているとのことで「縄文人が暮らしていた1万年くらい前に山はもっと低かった。高台で安全、水の確保がしやすく縄文人にとって暮らしに適した土地だった。のちの蝦夷もここで生活していたんですね」と城輪の柵の時代へとつながっていきます。

この断層を眺めていたら、学生時代に奈良を旅して甘樫丘に登ったことを思い出しました。飛鳥川沿いに集落ができている風景から、はるか昔から人々が川沿いで生活していたことが見えるようで悠久の時の流れの中のちっぽけな自分を想いました。今の小学生たちはこの地層をみて何を感じるのでしょうか。

飛島とのつながり

飛島では米が作れません。稲作に取り組んだ名残として田ノ下とういう地名も残っていますが、結果的にスズメの大繁殖につながってしまい断念したそうでうです。

代わりに飛島の人々はイカ漁に励み、スルメイカを酒田に持ち込み年貢にしたとのこと。そのつながりを示すのが、なんと玉こんにゃく。美味しいと評判の玉こんにゃくはもともと飛島のイカの出汁が使われているそうです。今回は産直店の定休日で、その玉こんにゃくを食することができませんでした。ザンネン・・・

さて北前船が酒田に繁栄をもたらした理由の一つに、風待ち港としての飛島の存在が大きかったとブラタモリの放送でも解説していました。庶民のくらしの部分でも酒田と飛島の共存共栄の関係で、地質学的には1500年前から飛島と酒田はつながっていた、37キロ海で隔てられていても飛島と酒田は切っても切れない関係なんですね。

鳥海山・飛島ジオパークを体験して

「酒田と飛島の大地の歴史は、どちらも東日本が海の底に沈んでいた時代の海底火山の活動から始まります。遠く離れた酒田と飛島で同じ時代の海底火山の噴火の様子を感じることができます。」

「大地の歴史から今の地形や地質があり、生態系が生まれ、自然の恵みから人の生活が成り立ち、文化が誕生する。それを立体的に学び体験できる場所がジオパークなんです。」

と小林さんは最後にまとめてくれました。

長く深い鳥海山の歴史から見ればほんの一部だったかもしれませんが、今回のプログラムでは頭が沸騰するくらいディープに鳥海山の歴史を体感することができました。

地理、歴史、考古学、地質学…学校の机上で別々に習うより、ずっと魅力的な学びにつながるジオパーク。長い長い時間の流れ、自然の雄大さ、命のつながり…。かつて油が採掘されていたころに作業員の汗と泥を洗い流したという温泉、鳥海山荘の露天風呂で満点の星を見ながら、生かされていることの幸せをしみじみ感じました。

(※本稿は2019年8月上旬に実施された取材をもとに作成されました。)


取材者プロフィール

ペンネーム:あんパンダ
所属単協名:千葉・ベイ
プロフィール:男女雇用均等法施行一年前に学生生活を終え(中略)二人の息子も成人し、地域で子育て応援活動などをしています。

未来の子どもたちの幸せのためにできること模索中。

  • URLをコピーしました!
目次