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特派員レポート

庄内の大いなる遺産 ―砂丘林物語

 

 

酒田駅を降りて西に向かうと現れるのが海岸線沿いにどこまでも続く松林。これが日本有数の砂丘の正体だということを、当時の私は知りませんでした。

 

私は酒田市出身で18歳まで海岸にほど近い小さな集落に住んでいました。
海に遊びに行く途中で何度も松林を通りましたし、小学校のときは、ストーブの薪に使う松ぼっくりを拾うためにリヤカーを引いて全校児童で松林に入ったりもしました。

 

下草が刈られた松林は、ゆるやかな起伏を伴っていて、見上げた枝先からやわらかい光が差し込んでいました。足を踏み入れるとまるで別世界に入り込んだかのように、静寂の空間がどこまでも広がっていたのを覚えています。また、毎年秋になると母に連れられてキノコ採りもしました。松葉のカーペットがふんわりとふくらんでいて、そっと松葉を除けるとそこにキノコがあるのでした。初茸やなめこなどを採り、母は冬の保存食として塩漬けにしていました。そんな懐かしい記憶が松林を通るたびによみがえってきます。

 

しかし実はこの人々の生活に寄り添う松林は、もともとは自然林でなく、厳しい自然とのかかわりの中で人の手で築きあげられた人工植林だったのです。

 

 

砂に埋まる民家や田畑

 

 

 

庄内砂丘林には、二百数十年にもわたる植林造成と保全の歴史がありました。

 

庄内地方の海岸は庄内砂丘と呼ばれ、幅3~4km、総延長約33kmにも及ぶ日本でも有数の砂丘だそうです。規模としては鳥取砂丘よりも大きいと言われていますが、緑豊かな海岸林や農地で覆われているため、一般的にはあまり砂丘とは認識されていません。

 

日本海沿岸は、最上川峡谷部から庄内平野に吹く風や、北西から吹く冬の季節風など風が強いことで知られています。潮風によって砂丘の砂は飛砂となり、道路や河川、ときには家屋や田畑までもが砂に埋まるなどの被害がありました。安部公房原作の「砂の女」で描かれている蟻地獄のように砂に呑みこまれる家は、庄内砂丘がその舞台となっています。人々は飛砂の害に悩まされ、砂と闘う日々を送っていました。

 

飛砂、砂嵐と闘った先人たち

 

 

古代、この地には豊かな森があったと言われています。乱伐によって森林が消え、砂漠化が広がったことが地層の調査から明らかになってきました。ようやく近世になり、失われた森林の復活を目指してたくさんの先人たちが立ち上がったのでした。

 

砂丘地植林の先駆者として、来生彦左衛門(1659~1748)、佐藤太郎右衛門(1692~1769)などがいます。来生は庄内藩から植林の指導監督者である「植付役」に任命され、荒廃した砂丘地に適した苗木の養成方法を研究したことで知られています。

 

そしてその子孫たちも何世代にもわたって幕末頃まで事業を継承しました。そんなとき、町民の依頼によって酒田の豪商本間家二代目の光寿が植林に取り組みました。

 

三代目の光丘もこれを継承し、数十万個の砂囊による人工砂丘を築造したり、グミやネムの木を植えてから、能登から取り寄せたクロマツを植林するなど、現代の砂丘地植林技術に通じる手法を用いました。そして卓越した実践力と財力により、植林を成功させたのです。

 

 

再生した砂丘の緑

 

 

庄内砂丘の松林には、こうした二百数十年にも及ぶ植林の歴史があるのでした。過酷で壮大な先人たちの植林事業によって、飛砂だけでなく、かつて飛砂が河口を埋めて頻発した洪水もなくなり、不毛の地は豊かな森へと変わっていきました。

 

そして鶴岡市から酒田市、遊佐町まで続く長いグリーンベルトとなったのです。人々の暮らしや産業は松林によって守られ育まれて、いずれ水はけのよい砂地でアンデスメロンやスイカなどが栽培されるようになりました。このクロマツ植林は庄内方式として他県の海岸林再生プロジェクトに応用されていると報告されています。

 

しかしそんな人の手で守られてきた松林も近代化に伴い、薪から石油燃料へ推移によって人の手が入らなくなり、荒廃し、松くい虫被害といった危機に直面したこともありました。しかし、現在は多くの人たちの不断の努力により、豊かな海岸林が戻りつつあります。

 

 

庄内の大いなる遺産 -砂丘林

 

 

私は酒田市を離れてもう40年以上になりますが、帰省して松林を通るたび思い出します。

 

次々とキノコを見つけていく母の後ろ姿、はぐれたときの心細さ、「かあちゃーん」と呼んだ後に木々の向こうから聞こえる「ここだよー」という声、そして友だちと競い合うように拾った松ぼっくり。いっぱいになったリヤカーを誇らしげに引いて歩いた帰り道。それらの映像がついこの間のことのように懐かしく目の前に浮かびます。

 

大正時代に入ると、本間光丘の功績をたたえて植林地の地名が『光ケ丘』と改称されました。現在、松林の中には陸上競技場、野球場、市営プールなどがあり、今も『光ケ丘松林』として市民に親しまれています。今の私たちの日常生活、酒田の産業の発達は、こうした先人たちの偉業の上に築かれ、まさに砂丘林は庄内の大いなる遺産であると感じたのでした。

 

この庄内砂丘林の様子は飛行機の窓から実際に眺めることができます。ぜひ皆さんも飛行機で庄内に足を運ばれた際は、窓の下に広がるその偉大な歴史を感じていただけると嬉しいです。

 

(※本稿は2018年7月下旬に実施された取材をもとに作成されました。)

 


 

取材者プロフィール

 

 

ペンネーム:麦
所属単協名:千葉・佐倉
プロフィール:現在61歳!50歳を越えて福祉の世界に。まだできることがたくさんあったと気づき、少しずつ行動につなげています。酒田市は私の故郷です。帰省するたびに「いいところだなぁ」との思いが深くなっているのは、歳のせい?